なぜ猫と泊まれる宿は少ない? 885万頭の「猫ツーリズム」市場

日本のペット市場において、決定的な変化が起きています。一般社団法人ペットフード協会の「令和7年(2025年)全国犬猫飼育実態調査」によると、国内の推計飼育頭数は犬が約682万頭に対し、猫は約885万頭に達しています。その差は約236万頭。猫は犬の約1.3倍です。

少子高齢化や単身世帯の増加などを背景に、室内で飼育しやすい猫の存在感は高まっています。「猫ブーム」という一時の過熱した言葉は過ぎ去り、いまや日本のペット市場における購買力シェアは、猫へとシフトしたとも考えられます。

しかし、国内の宿泊市場に視線を転じると、そこには大きなギャップがあります。「ペット同伴可」の宿泊施設を探すと、ほとんどは愛犬と遊べるリゾートホテルやドッグラン併設の温泉旅館など、犬との滞在を前提としたサービスです。一方、猫と一緒に宿泊できる施設は、犬に比べて選択肢が限られています。

飼育頭数では犬を大きく上回る市場が存在するにもかかわらず、なぜ猫と泊まれる宿はこれほどまでに少ないのでしょうか。2025年度の国内ペット関連総市場は1兆9504億円と推計され、2028年度には2兆317億円まで拡大すると予測されています。猫用商品の堅調さや、ペットの家族化を背景としたサービスの多様化・高度化も、市場を支える要因となっています。

宿泊業界が、この大きな市場の変化を十分に捉えられていない背景には、猫の行動特性だけでなく、宿泊施設側のリスク認識やサービス設計の難しさがあります。そこには、「猫ツーリズム」を考えるうえで見逃せない構造的な問題があります。

なぜ「猫需要」はビジネスとして見えにくいのか

宿泊業界では、猫について「環境の変化に弱く、旅行に向かない動物」というイメージが根強くあります。実際、猫は縄張り意識が強く、見慣れない環境や匂い、音などをストレス要因として受け取ることがあります。

2026年に公開されたFelineVMAの環境ニーズに関する資料でも、猫は見慣れない環境や人、強い匂い・音などによってストレスを受ける可能性があり、安全に隠れられる場所や高い場所などを用意することが重要とされています。

しかし、これは「猫には旅行需要がない」ことと同義ではありません。猫の生理的・行動的特徴を踏まえたうえで、犬とは異なる体験価値を設計する必要があるということです。

犬を伴う旅行の価値は、屋外でのアクティビティと強く結びついています。広いドッグランで走らせる、アジリティ設備で遊ばせる、テラス席で一緒に食事をする、映える撮影スポットで記念写真を撮るといった要素は、いずれも見えやすい体験価値です。宿側にとっても、こうした設備は写真や動画などのビジュアル素材にしやすく、SNSや旅行ポータルサイトでの訴求力を高める要素になります。

対して猫との滞在では、必ずしも「何かをして楽しむ」ことが中心になるとは限りません。静かな環境、他の動物との接触を避けられる空間、身を隠せる場所、上下運動ができる場所など、猫が自分で距離を取れる環境が重要になります。

全米猫獣医師協会(AAFP)のガイドラインでも、安全に隠れられる場所や垂直方向の空間、猫が環境を選択できることがストレス軽減につながるとされています。

つまり、猫向け宿泊サービスの価値は、犬向けサービスのような派手な設備ではなく、「安心して過ごせること」にあります。これは写真一枚で伝えにくいため、犬向けと同じマーケティングの枠組みでは商品化しづらいという課題があります。

重要なのは、猫の飼い主たちに外出や旅行のニーズが存在しないわけではないということです。仕事での長期出張、実家への帰省、転居を伴う移動、あるいは家族全員での旅行など、愛猫を伴って移動せざるを得ない、あるいは連れて行きたい局面はあります。しかし、現状の宿泊市場には、その受け皿が十分にあるとはいえません。

その結果、飼い主たちは旅行そのものを諦めるか、留守番、ペットシッター、ペットホテルなど、宿泊市場の外にある手段を選択することになります。

供給側が犬を基準としたフレームワークでしかペット市場を観察していれば、猫向け需要は存在しないのではなく、宿泊市場に現れにくい需要として、別のサービスへ流れてしまう可能性があります。

宿側を躊躇させる「運用リスク」と「思い込み」

なぜ多くの宿泊施設は、猫の受け入れにこれほど慎重になるのでしょうか。その背後には、設備の破損や汚損、脱走、チェックアウト時の確認など、犬とは異なる運用上のリスクがあります。

宿泊事業者が懸念するリスクとして、まず挙がるのが設備の破損や客室の汚損です。特に警戒されるのが、尿のマーキングによる臭気の残存と、爪とぎによる壁紙・柱・家具などの破損です。猫にとって爪とぎは自然な行動であり、視覚的・嗅覚的なマーキングにも関係しています。

尿マーキングは未去勢のオスで起こりやすく、去勢によって頻度が低下することが知られています。ただし、去勢・不妊手術後もマーキングがみられる猫はいるため、「手術済みなら問題ない」と考えることはできません。

次に問題となるのが、脱走や事故が発生した際の責任リスクです。猫は狭い場所に入り込んだり、高い場所へ移動したりするため、客室のドアや窓などからの逸走を防ぐには、犬とは異なる安全対策が必要になります。万が一、滞在中に館外へ脱走する事故が発生すれば、飼い主とのトラブルに発展する可能性があります。施設側にとっては、猫の捜索や事故対応なども含め、受け入れをためらう要因になります。

さらに、チェックアウト後の捜索や確認コストも無視できません。猫は不慣れな環境で緊張すると、ベッドの下や家具と壁のすき間など、人から見えにくい場所に隠れることがあります。猫が安心して身を隠せる場所を持つことは、環境ストレスを軽減するうえでも重要です。

チェックアウト時に猫が見当たらない、あるいは隠れて出てこないといった事態が発生すれば、清掃スタッフによる確認が必要になり、客室の稼働にも影響する可能性があります。

だが、これらのリスクは果たして猫受け入れ不可の決定的な理由になり得るでしょうか。現代の室内飼育されている猫では、不妊・去勢手術が行われているケースも多く、特に尿マーキングは去勢によって頻度が低下することが知られています。もちろん、手術によってすべてのマーキングがなくなるわけではありません。

事前の同意書や利用規約を整備し、爪とぎ用品や猫が安心して隠れられる場所を用意する。客室の入口や窓には脱走防止設備を設け、チェックイン時に飼い主へ注意事項を説明する。さらに、猫が使用した客室を想定した清掃・消臭手順を標準化する。こうしたリスクマネジメントによって、これらのリスクを一定程度管理することは可能です。

業界全体がリスクを一律に過大評価するのではなく、猫の行動特性を踏まえた商品設計と運用体制を整えることこそが、現在の参入障壁を低くする一歩になるのではないでしょうか。

人口減少時代の勝ち筋
「全館対応」ではなく「1室」から始める

国内の宿泊市場では、人口減少などを背景に、限られた需要をめぐる競争が続いています。単なる割引合戦や表面的な設備投資では、収益性を維持することが難しくなっています。

こうした成熟市場で競合との差別化を図るなら、他社が見落としている未解決の不便をピンポイントで解消する方法があります。その一つが猫の飼い主層です。猫需要を獲得するために、全館を改修したり、莫大な資金を投じて猫専用リゾートを建設したりする必要はありません。既存客室のうち1室を徹底的に猫対応させるスモールスタートも考えられます。

まず、静かで安全性を確保しやすい客室を選定します。館内で人の往来や大きな音が少ない部屋を専用客室として指定し、客室の入口には脱走防止の二重扉などを設置します。窓についても、猫が逸走しないよう必要な対策を講じます。

次に、ストレスを軽減する立体空間と隠れ場所を設計します。高い場所を好む猫の習性に合わせ、安全なキャットタワーやウォールシェルフを配置すると同時に、猫が自ら入り込んで安心できる隠れ家を用意します。猫が身を隠したり、周囲を見渡したりできる環境は、見慣れない場所でのストレスを抑えるうえでも重要です。

最後に、マニュアル化されたオペレーションとチェックアウト手順を構築します。清掃時には猫の毛や排泄物などを適切に処理できる手順を整え、使用する洗浄・消毒剤についても、用途や使用方法を確認したうえで選択する必要があります。

また、チェックアウト時には飼い主とともに猫の所在を確認するなど、安全確認の手順を標準化しておくことも重要です。

このアプローチの最大の強みは、全館を改修することなく、まず小さく検証できる点にあります。猫と安心して泊まれる宿の供給が限られている現在、適切な環境を備えた客室を用意できれば、口コミやSNSを通じて新たな需要を取り込める可能性があります。

「230万頭」の先にある猫の宿泊市場

ペット=犬という従来のイメージだけで市場を見ると、猫の存在感を見落とすことになります。しかし、冷静に市場の数字を直視すれば、国内には犬より約236万頭多い猫が存在します。2024年の推計飼育頭数は、猫が約915万5千頭、犬が約679万6千頭です。

ただし、この頭数の差だけから「猫の旅行需要が犬より大きい」と結論づけることはできません。猫の飼育頭数が多いことと、猫を連れて旅行したい人の割合が高いことは、別の問題だからです。

一方で、猫関連市場そのものが無視できない規模になっていることは確かです。2025年度のペット関連総市場は1兆9504億円と推計され、飼育頭数が比較的堅調な猫用商品への注力や、ペットの家族化を背景としたサービスの多様化・高度化が市場を支える要因となっています。

だからこそ、宿泊事業者が考えるべきなのは、「猫は旅行に向かない」という一言で需要を切り捨てることではありません。どのような猫と飼い主なら、安全に、無理なく、快適に利用できるのか。その条件を見極めたうえで、サービスとして成立させられるかを検討することです。

猫と泊まれる宿が少ない現状は、単純な「業界の怠慢」と断じるべきものではありません。猫には犬とは異なるストレス要因や安全上の課題があり、それに対応するには設備と運用の両面で工夫が必要だからです。

しかし、そこにこそ事業機会があります。小さく1室から始め、確実なリスク管理のもとで猫の安心価値を提供する。猫の行動特性を理解し、飼い主が安心して利用できるサービスとして設計する。こうした取り組みを積み重ねることで、これまで宿泊市場から見えにくかった猫の需要を、新たな市場として捉え直すことができるのではないでしょうか。

猫の飼育頭数が犬を上回る時代に、宿泊業界が「猫と泊まる」という選択肢をどこまで具体的なサービスへと育てられるのか。これからのペットツーリズムを考えるうえで、注目すべきテーマになりそうです。